分かりにくい男日記

社会人3年目のとある建設コンサルが、主にお笑いとまちづくりについて書く日記

「笑えるコンプレックス」からの挑戦状

 

 

世の中で尊敬する職業のひとつが芸人さんである。

メディアでは自分のコンプレックスを笑いに変え、それを武器にして人気を博している芸人さんも多い。大変いいことだ。お客さんも笑うし、本人も職を全うできる。プロダクションも潤う。Win-win-winである。まぁイジられることが婚活に支障があるとしている芸人さんもいるが…

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  • メディアが求めるコンプレックス

一般的に女性であれば「デブ」、男性であれば「ハゲ」「活舌」、共通するものとして「ブス」「貧乏」「バカ」「チビ」等…

これらを武器にする芸人がいるのは、私も含めた「客」が「笑ってしまう」からに他ならない。芸人を前に「客」として彼ら彼女らのコンプレックス笑ってしまうのはなぜなのだろうか。「客」の視点で考える。

 

  • 笑えるコンプレックスには傾向がある?

私が客として「笑えるコンプレックス」の中にあると感じるものは、相手を下に見ることができるもの、特に愛着をもてる「未発達」「醜さ」がある。我々が彼らを見て、トークを聞いて笑うのは彼ら彼女らに対して優越感をもって「蔑む」ことができることにある。例え自分が同じコンプレックスを抱えていても(認知していていようがいなかろうが)、自分を棚に上げて「蔑む」ことができる笑いだ。

 

  • 「コンプレックスが笑いに変わる」を伝える影響

コンプレックスを笑いに変え、メディアで取り上げてきたことは大変価値があると感じる。同じコンプレックスを感じている人が、メディアを通じてその価値に気付き、自分のコンプレックスを武器と捉えてポジティブに生きられるようになるなど、その人にとってネガティブでしかなかったコンプレックスが笑いになり、救いになる、明らかによい影響。もちろん、笑いとよく結び付けられてしまう「学校現場でのいじめ」に目を向けたとき、いじめる側が「笑いに変わるコンプレックス」についてメディアを通じて認知してしまうのはあるかもしれない。しかし、「いじめる」状況は結果である。

例えばある人が「コンプレックスが笑いに変わる」と知り、自分もそれができると過信した結果どうなるであろう。信頼関係もないまま、そしてその技量もないままイジってしまいただの不快で悲惨な結末を迎えることがあるのは、メディアが笑いに変わるコンプレックスを発信したからではない。メディアから情報を捉える力が乏しく、何も生めず技術もないその人の「過失」である。この考察は芸人さん自身も示されている。

※参照「キングコング西野」さん「ダウンタウン松本人志」さん

lineblog.me

 

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  • 笑えないコンプレックスの出現

人を下に見る「蔑み」が笑いに変える源の一種であって、そのスイッチを押してくれるのが今回の「笑えるコンプレックス」であるのなら、コンプレックスの全てが笑いに変えられるわけではない。むしろ「笑いに変えられない」境遇や価値観をもつ「笑いに変えられないコンプレックス」を抱える人の声の挙げられなさ、発言できなさは辛さヒトシオではなかろうか。

 

  • 「育ちがよい」がコンプレックス?

「お金もち」「育ちがよい」「賢い」というレッテルは往々にして笑いには代えられない。一般的に羨望の対象となるからだ。芸人がそれらを押し出さないのもそのためであろう。最近ではメディア全体が多様化し、芸人というよりタレントも含め個々がそれぞれをブランディング図るためにそれらのレッテルをはることもある。しかし「蔑み」の笑いは未だに圧倒的な支持を得ており、どんなに「お金持ち」エピソードをしても、羨望や一時的な笑いにはなっても、またそのエピソードを聞きたい、またその人を見たいというリピーターにつながるかは想像に難しい。

 

  • 「笑えるコンプレックス」からの挑戦状

本題に入る。「よい育ち」や「よい経済状況」「よい家族」であることをひた隠しにしなければならない環境があると感じている。私はこれを「笑いに変わらないコンプレックス」と呼ぶ。とても親に恵まれて育った人や、学生時代成績優秀であった人は感じたのではなかろうか。私事で言わせていただけるのなら最近、話し方に「育ちのよさがにじみ出ている」(といっても敬語禁止のノリの時に結構使ってしまったというレベル)ということから発言の機会を与えられなくなったり、率直に感じた「恵まれている」エピソードをしても「何話しているの」という空気になったりした。もちろん私自身の話術の至らなさ、口下手さに起因するところが大きいが、自分のもつ基盤が「笑いに変わらない」という理由から共感できる場が減り、価値ある知恵であっても表に出さず埋もれていくことが多いのは、イチ人間として、また同じ悩みを抱える人がいるのであれば損失の他何物でもない。

これは「笑えるコンプレックス」からの挑戦状である。私は「笑いに変わらない」基盤をもつ環境・価値観=「笑いに変わらないコンプレックス」を抱える人の一人として、大多数の人には共感されないことを抱えながらも、いかに限られた人とでも分かち合えるか、いかに境遇を伝えることができるか、試されている。模索したい。

挑戦は買おうと思うが、回答にはまだまだ道のりが長い。